朝日の取材に問題はなかったか

「札幌からニュースの現場で考える」というブログを書いている現役記者の高田さんによれば、

 今回の朝日・NHK問題のケースでは、NHK内部に保管されている(と思う)当時の報告書なり、会議録なり、NHK幹部の備忘録やメモ類なり、とにかく「介入があった」という以上は、それを示す「ブツ」を握っておく必要がある。それをとことん探すことから、調査報道は始まる。
 内部のブツがなくても、実際にだれとだれがいつ会ったかを示す客観的データくらいは欠かせない。議員会館の面会票でも、議員事務所に残る記録でも、NHK側の記録でも何でもいい。

 ブツが入手できない場合もある。その場合は、相手の言うことをとことん聞かねばならない。たとえ、長電話であったとしても、調査報道の対象の言い分を電話取材で済ますことは、取材の常識からやや外れている。取材対象者の言い分が食い違っている場合は、おおむね「当事者の思い違い」「だれかがウソを言っている」の二つしかない。
 その場合は原則、食い違いを埋める作業が必要だ。さらに言えば、取材対象者の口裏合わせを防ぐために、対象者に「同時に一斉に取材をかける」ことが絶対に必要になる。「何人かに一斉に取材する、その結果を持ち寄る、内容を検討して矛盾点を洗い出す、その矛盾点についての質問を重ねるために再度一斉に取材する、問題点を絞る、、、、」といった作業の繰り返しである。だから、調査報道には途方もない時間と手間がかかる。私の経験でも、取材が数カ月に及ぶことは珍しくない。それでもダメになることは少なくない。
 最後に「詰め」の瞬間がやってくる。その段階までに相手がすべてを認めていれば大きな問題はない(いわゆる「落ちた」ということを指す)。最後まで相手が否定し、また関係者の事実関係に齟齬が残る場合は、調査報道の対象者がこれまでの取材で語ったことをペーパーにまとめて読んでもらう方法も有効だと思う。
 内容が変遷をたどって来た場合は、そのままそれも示す。そのうえで、取材者は「書きます」ときちんと伝える。この「通告」によって、さらに相手の態度が変わることもある。

 調査報道において、単発で終わる記事はなるべく書かない方がよい。できれば、続けざまに関連原稿を出せるように準備しておいた方が良い。なぜなら、ふつう、調査報道で暴き出すようなテーマは、一本の原稿で伝えきれるようなものではないと思うし、きちんと取材すれば関連原稿を何本も積み重ねることが可能な材料は、十二分に集まるはずだ。

と、書いている。この意見を私は支持する。
やはり、グウの音が出ない程に、言った言わないの水掛け論にならないように
朝日は取材していかねばならない。
それが朝日には出来ていたのか。
現在までの経過を見る限りだと、「甘い」としかいえないだろう。
(もちろん、高田氏も言っているように新事実を隠し持っていることも考えられるので、
断定はまだまだ出来ないが)


朝日に対して、さらに思うことはある。
週刊新潮の広告を拒否したことである。
確かに、週刊新潮の記事内容は、問題がある書き方をしていると思うが、
広告を拒否するということに対しては、私は問題だと考える。
様々な意見や考え方を保障するのが、報道機関であり、例え自社の名誉を傷つけるものであっても、
広告を掲載した上で、読者に判断を委ねるべきではないだろうか。
(読売新聞なども同様の事をしているせいか、このことについて触れているメディアは少ないが)
私は、できる限り規制をせずに、読者に判断を委ねるというのが理想だと考えている。
(多分この考えは有害コミック騒動から起因しているのだろうが)


つーか思うのは、この番組を見て議論してる人って(自分も含めて)ほとんどいないよね。
今こそ、再放送とかしてくれないかなあ・・・。
法廷の模様を記録したビデオも発売されてるらしいんだけど、
自分の周りの図書館とかにはないんだよなあ・・・。